114.アダム・ロバーツ『超快速・旬の・究極の国、現代インドの休みなき発明(作り話)』Adam Roberts, Superfast Primetime, Ultimate Nation: The Relentless Invention of Modern India
1.占い師はモディに希望を見出す
ビヒム・ジョシの栖みかは、デリーのゴヴィンド・プリの陋巷にあった。彼は、30年間占い師で食べてきた。インドの未来はどんなものなのか、私は聞いてみた。ナレンドラ・モディが首相になり、インドはおおいに繁栄する、とジョシは占った。…ジョシの預言は、かなりの確率ではずれる。
(インドの今の現実の風景が呼び起こされるとともに、英国風のシニカルな味わいが、随所に顔をだす。どれだけうまく理解できるか覚束ないが、ゆっくり楽しみながら読んでいこう。)
私(アダム・ロバーツ)は、テレビのトークショーでインドの将来について論じさえした。インドのこれからの繁栄を語るのは、今、もっとも好まれるテーマだからだ。
インドの潜在的な力は以前から言われていた。そして、インドに必要なのは、新しいリーダだ、と。…そういう状況においてヒンドゥー至上主義の抬頭は何を意味するのか。ナレンドラ・モディも、その基本は反エスタブリッシュメントである。強くて大衆迎合的(というより民衆に何がうけるかを知っている)な政治家が権力の座を占める、そういう世界的潮流のなかに、モディもいる。
(モディはインドに繁栄を齎すことができるのだろうか、中国のように。)
2.取り残された土地に生きる人々の最近の変化
ヒマラヤの裾野からそう遠くないインド北東部において、アッサム州はとりわけ貧しい。その貧しい土地に、美しいブラフマプトラ川が流れる。そして、今、この土地をヴィーヴェカーナンダ特急が走る。インドを見るには、鉄道に乗ることだ、と言う人がいる。しかし、鉄道の実態はみすぼらしいものだ。鉄道事業の停滞は、インドの停滞を象徴している、かのようだ。ヴィヴェック特急にのれば、インドの停滞の核心が見えてくる気がする。列車のなか、性転換したヒジュラが物乞いをしている。列車はジグザグに南に向かう。その人は、母親をより良い医療を施すために、母親をタミルナードゥの病院まで連れてゆくのだという。小水の悪臭漂うヴィヴェック特急に揺られていると、逆説的に、容易に改革できることは、実に多いと思えてくる。インドは、このような非効率をあらためようとしている。鉄道省の総裁は、鉄道の近代化をインドの経済発展のモデルとしたい、と語っていた。だが、組合は改革には強い抵抗を示す。
(インドの長距離列車に乗るには、ある覚悟が必要だ。チケットの購入が幾分改善されたとはいえ、依然、過酷なものなのだ。だが、あのインドの鉄道列車が快適なものになるとは、私は考えたことすらなかった。)
このインド北東部の孤立した5000万の人々は、50年間、苦しんできた。彼らは、ずっと自分たちをインド人とは思ってこなかった。中央政府の当地に対する補助金は略奪され続けた。だが、携帯電話と格安の航空網が、彼らを孤立から開放し、分離独立のゲリラ勢力を後退させた。出稼ぎによる収入の増大が、ゲリラによる争闘の明け暮れを遠ざけたのだ。極度の貧困の改善の兆しがここにある。
ブラフマプトラ川
3.貧困の経済から開発経済へ
インドにおける経済発展が議論される場面で、アマルティア・センが取り上げられるのは、めずらしいことではない。センは、絶望が改革の原動力になりうる、と考えているふしがある。人々の幸福を考えること、つまり絶望的な現実から人々を救いだそうとする試みは、批判に晒されにくい、というセンの計算を考えてしまう。アマルティア・センは、生活と活動の拠点をロンドンにおいて、南アジアの絶望的貧困を論じる。
経済的な豊かさに関して言えば、南インドは際立っている。カルナタカ州の生活水準は、他の東南アジアの諸国とくらべてもひけをとらない。しかし、問題は、その経済的な豊かさの中でも、例えば、乳児死亡率は極めて高いということなのだ。…グジャラートにも豊かなところがあるが、その医療体制はひどい。インドでは、ある種の繁栄を享受しているかに見える地域でも、基本的な社会サービスの欠如が明らかなのである。
スーラト(グジャラート州)は賄賂のない都市だ。スーラトの繁栄を支えているのは、ジャイナ教徒たちに支えられたのダイヤモンド産業である。スーラトの成功は、地方政府の努力によるものだ。スーラトの改革は、モディの登場とは関係ない。
ナレンドラ・モディの目論見は、グジャラート州に多くの製造業を立ち上げることだった。事業家にとって魅力的な利便性のある環境を、モディは用意した。投資家は、モディに近づき、彼は投資家のプロジェクトを後押しした。モディは事業家を遠ざけたジャワハラル・ネルーとは違ったのだ。
郊外の荒地に壮大なビル群を建てようとしている。あるいは、アーメダバードの郊外には、奇妙な名前(“リビエラ・ブルース”)の街を作り、中産階級の人々が住んでいる。
すべてがおぞましい計画というわけではない。グジャラートの事例は、インドの発展と現代化の先触れと考えてよいのか、迷うところだ。
4.会議派の後退とモディの改革
(インドの社会は、経済成長だけでは測れない振幅をもっている。どんな社会でも程度の差はあれ同じかもしれない。が、とりわけインドでは貧困が、実に豊かで様々な表情を見せる。たとえば、祝祭と信仰がそうだ。金はきわめて重要だとしても社会の本質のすべてではない。そこにインドの社会と人々の不思議な魅力がある。)
マンモハン・シンの首相時代(2004~2014)は、それ以前のどの時代よりも経済的には上手くいった。シン首相の功績のひとつは、インド中央銀行の改革だ。有力政治家と癒着した銀行の旧弊を改め、疲弊した地方銀行を立て直し、海外からの投資をよびよせたのだ。シン首相は、非効率な官僚制度を抱えながらも、統一的な税制による均質な市場を整えていった。そして経済はゆっくりと上向いていったのだ。
シン首相は、より率直に国有企業を民営化するという明確なメッセージを発するべきだった。シン首相は、インド航空を民営化したかった。彼は、改革をしくじったのではない。彼は、改革の重大な方向性を十分に理解しながらもそれに手をつけられなかったのだ。
国民会議派の党首ソニア・ガンディーが閣僚の指名や重要な方針を決定しているにもかかわらず、シン首相は、ソニアとの軋轢を、また自らの望みを、無防備に伝えてしまうところがある。
サンジャイとインディラがあいついで死亡するとラジブが四十の若さで首相となった。そのラジブもタミル独立派の自爆テロで暗殺され、ラジブの妻ソニアにところに、会議派のリーダーの役が回ってきた。ソニアは、2004年の総選挙で会議派に大勝利を齎す。が、ソニアは会議派の分裂をまねく。
ソニアは、イタリア北東部の生まれで、父親は、ムッソリーニを支持するファシストの石工だった。ソニアとラジブは、ケンブリッジ大学で知り合ったのだ。
ソニア・ガンディー
BJP(インド人民党)も早くから経済の改革・開放に取り組んでいた。地道な成果をあげてきた。2014年、インドの人々はとうとう会議派に見切りをつけた。しかし、ナレンドラ・モディ政権の初期の経済政策は貧弱に見えた。モディは、グジャラートでの会議派との争闘と同様に、デリーでもさんざん苦々しい思いをした。自由な市場、民間活力の推進といった彼の政治的掛け声にもかかわらず、最初はうまくいかなかったのだ。独立の事業家などいやしない、みな政府とのコネで財をなしたのだ。賄賂で票を買う政治家に自由経済など関係ない。それでもモディは元気で調子が良かった。新しい政権はシン政権時代の旧弊を粘り強く断ち切ろうとした。モディの激しい行動が、ある程度、贈収賄をやりにくくした。高額紙幣の廃止は、モディの強い意志を示すとともに、政敵の資金源を断ったのだ。
5.インドの新しい産業とハイテク
インドという国が、改革に本腰を入れ始めたのは、1990年代のことだ。締め付けのあとの開放感で、経済は力強く成長した。当時の雰囲気は、十年のうちにインドはまったく生まれ変わり、米国のようになるのだと、多くの人々が信じていた。ただ、インド政府は、東アジアにおける輸出主導の成長モデルをインドが追うことには懐疑的だったようだ。それよりも、人々の生活の基本となるようなものの生産(例えば、電球を作ること)により力をかけたかった。
インドにはしっかりしたインフラが必要だし、ビジネスの成長のスピードを奪う規制も多い。ルノーは、インドの車市場と当地での車の製造に魅力を感じていたが、劣悪なインフラが彼らの投資を躊躇させた。フォックスコーン(台湾系、製造請負業)も、インドの豊富な労働人口に着目したが、膨大な書類仕事に嫌気をさしてしまった。
非常にうまくいっている会社もある。一例をあげれば、カジャリアKajaria陶器という会社だ。本業の陶器類の製造だが、余力でクリーンエネルギーの売電事業といった先進的な取り組みを行っているのだ。だが、その雇用はきわめて限られている。
政府主導の産業は、相変わらず、旧態依然とした装置産業が主なのだ。雇用を求める人々の数は膨大だが、雇用はごくわずかなのだ。逆説的に聞こえるかもしれないが、インドで熟練工を雇うことも至難なのだ。とかくインドでの事業は簡単ではないのだ。
インドで元気な企業というと、一風変わった仕事が目立つ。ティルパティ寺院(南インドのヒンドゥー教寺院群)における毛髪の輸出ビジネスは、寺院を現に富ませている、という。
(参詣者の剃髪の残骸を輸出して儲けているのか。…こんなことが仕事になるのか、といったことで結構ビジネスが成り立っている現実がインドにはある。これらを、インドの後進性とは私はみない。)
豊かで多様な自然(タミルナードゥのバックウォーターやカシミールの雪景色)と人類の至宝ともいうべき豊かな文化遺産をもつインドだが、訪れる外国人観光客は800万人に過ぎない。インドの観光産業には二つのおおきな障害がある。一つは、名所旧跡へのアクセスの悪さ(例えばハンピ遺跡には、バンガロールからでも、特急とは名ばかりの夜行列車に一晩揺られなければ辿りつけない)、また、もう一つは、女性旅行者の安全だ。インドは、外国人女性が一人で旅するには、それなりの用心と覚悟がいまだに必要な国なのだ。
中世ビジャヤナガル王国の都、ハンピ遺跡
ナレンドラ・モディは、科学を古代に融合させる。『ヴェーダ』には、すでに宇宙探査の記述があるとか、ガネーシャは、古代において成形手術が行われていた証拠だという話を好む。モディは、インドの多くの人々が、神秘主義よりもヒンドゥー教と新しい技術が熱狂することを良く知っている。
モディは、新しい技術が役人や政治家の腐敗を根絶する、と確信しているかのようだ。噂では、モディは、部下や政敵についてハイテクな方法でつねに追跡している、のだそうだ。また、モディは、自らの選挙戦で3次元ホログラムを使って、素朴な人々を熱狂させたのだ。
今や、かつぎ屋さんにとって携帯電話は必需品だ。あるいは、自家用車を所有するなどという古い考え方に我々は振り回されない、と多くの人々が言う。携帯電話の普及が、弱い通信事情を劇的に改善したように、新しい技術が、弱いインフラを補い発展させる、と。
(インドでは、技術革新が、インドの今の問題を解決する、という信仰にも似た考えが流行している。役所の仕事の効率化を、政治家をめぐる贈賄の根絶を、教育機会の拡大を、技術革新が齎すと。公衆衛生も、都市の公害も、上下水道の整備も、快適に移動できる鉄道網も技術革新が解決する、と彼らは言うのだろうか。)
6.インドの民主主義におけるファミリー王国と汚職の帰結
(インドの人々は、インドにおける民主主義の伝統と価値を誇りにしている、路上生活者にも選挙権を確保しているのだ、と。だが、インドの民主主義といっても、それを長く支えてきたのは、血のつながりを重んじるファミリー王国((これは、ガンディ家による政治支配から企業まで、ひろく認められる現象だ))と、これもインドのあらゆる場面で跋扈する汚職なのだ((学校、警察機構、役所からプロのクリケット・リーグまで汚職まみれなのだ))。実際、ファミリー王国と汚職の時代が長く続いた。多くの近代国家が、ファミリーと汚職に一線を引いてきたのと対照的に、インドでは、ファミリーと汚職には、欧米諸国とは別の価値・システム・楽しみがあるようなのだ((インドでは汚職につて人々は嬉々として語りあう))。インドのファミリー王国と汚職を、欧米のそれらの常識と単純に比較して批判してはならない、と思う。だが、変化はすぐそこまでやってきている。モディの出現は、ファミリー王国と汚職にうんざりしているインドの人々に((インデラの孫ラーフルがファミリー王国の終焉を演じた))、いささか専制的であろうと、ファミリー王国や汚職とは別のダイナミズムを届けようとしている。)
ラーフル・ガンディー
インデラの孫、国政を差配するガンディーファミリー王国は、
ラーフルの代で地方政治家に後退した
7.選挙はいつまでも終わらない、だが、変化の足音がする
デリーでの挨拶は、政治の話からはじまる(アミット・チョウドリーに言わせると、カルカッタの挨拶は、食事の話から始まる)。政治の話の中心は選挙だ。ところでインドは、世界最大の民主的な選挙を実施する国でもある。選挙のサイズも興味深いが、特筆すべきは、インドにおける選挙が、インドの人々にとって一種の娯楽であることなのだ。
(私の子供時代の日本もそうだった、候補者をまるで隣人のように感じ、応援したり、非難したりしたのだ。選挙から祭の雰囲気がなくなって((それはどうしてか、金銭による振舞いがなくなったことと関係していまいか))、選挙がつまらなくなった。)
以前ほどではないとしても選挙における不正はあいかわらず続いている。村の長が、村民全員分の投票をとりまとめ、競売にかけたりするようなことが、以前は行われていた。もはや、そのような目立つ不正は姿を消したが、様々な不正が横行しているのだ。死亡者の投票権は格好の売買の対象であり、複数の候補者に賄賂を要求する者もいる。また、ダミーの候補者をたて票を分裂させる手もある。賄賂はしばしばアルコールやドラッグで供されるのだが、見返りは確かなのか候補者には分からない。不正を行う候補者は、重い負担を背負うことになるが、一体いくらかかるのか分からないのだ。
今や、多くの者が、はした金で票を売る愚かさに気付き始めている。もはやグループの投票ではなく、個人の判断で投票する時代になった。それは都市部だけの傾向ではなく、農村部においてもこの傾向は顕著なのだ。農村部の人々も、携帯電話やオートバイの利便性を享受しているからだ(つまり経済の発展を実感しつつある)。有権者の意識の変化にいち早く気付いたのがモディだった。この変化を如実にしめしたのが2014年の選挙だった。モディは、経済の発展を選挙の公約にしたのだ。自主決定する流れのなかで、都市部のみならず農村部を含めた数億人の有権者が新たに生まれた。若い有権者は、自分の将来が重要なのだ。新興の中産階級の人々は、過去の貧しさに引き戻されるかも知れない恐怖をいつも抱えている。2016年の選挙におけるBJP(インド人民党)の圧勝は、多くの人々が経済が悪くなることへの恐れに起因する。
インド人民党のシンボル
8.今どきの話題;男と女(性)
北インドにおける女子の出生率は、男子のそれと比較すると100分の1なのだ(信じられないが、そう著者は書いている)。その結果、例えばハリヤナ州では、今、深刻な嫁不足に陥ってしまった。ただ、大物政治家に女(性)は多いのは、どうしてか。
男子尊重の伝統には、悪名高いドウリー(嫁の側からの嫁ぎ先への結納金)が背景にある。娘を嫁がせるには、多額のドウリーが欠かせない。また、ドウリーが発端になって嫁の虐待が始まるケースも珍しくない。ドウリーは、法律で禁じたにもかかわらず今も続いている。
数世代が同居する大家族は以前より少なくなったとはいえ、まだ数多く存在する。
姑の嫁いびりは、何もインドに限ったことではないが、姑も嘗ては嫁だった、といった昼メロは、いまでも根強く人気がある。(同じ女(性)、人間なのだという認識が、嫁・姑の現実の問題を解消するはずだという物語なのだろうか?)
今、結婚に際して、義理の母がどのような人なのかを調査する探偵業が繁盛している。家族のトラブルは、母親に問題がある場合が多いからだ。だが、嫁の理想も高く、現実の結婚生活を見ていないところがある、とその探偵社の責任者は語る。また、その探偵社は全国展開していて、仕事をもった女(性)が、その地を離れ嫁ぐことは(例えば、ボンベイからデリーへ行く)、きわめて難しい、のだとも言う。(女(性)の社会進出に伴うあらたな制約という意味で、興味深い。)
今、自立する女(性)、嫁たちの姿が確かに明らかになりつつある。経済的に自立し得る女(性)は、問題があれば、速やかにそこから退散するのだ。
インド経済における女(性)の数はまだ少ない。中国では労働生産人口の40%が女(性)であるのに、インドでは17%に過ぎないのだ。インドの女(性)がより積極的に働きだしたら、経済は60%も拡大する、と言う学者がいる。
メナム川沿いの古都ヴリンダヴァンで
自らの死を待つ女(性)たち
嘗ての嫁の現在は厳しいものだ。アグラに近いヴリンダヴァンというところは、年老いたホームレスの女(性)が、死を迎えるためにやってくるところだ。息子は、870マイルも車を運転し母親を捨てに来た。(母親の意志なのか、あるいは、家族の決定なのか、分からない。嘗ての嫁である姑と、経済的に自立しうる女(性)との間で、インドの女(性)をめぐる環境は激変しつつある。それは、どのような未来に行きつくのか。経済の躍進とインドらしさの喪失というイメージが浮かびあがってくる。だが、問題はもう少し別のところにありそうだ。)
9.今どきの話題;環境問題
ガンジスの平原が、高温多湿に喘いでいる季節(摂氏50度を超えることもある)、カシミールの山岳地帯への巡礼(ヤトラ、アマルナートの聖なる洞窟を目指す)は、まさにうってつけなのだ。だが、この年、130人もの人が亡くなった。事故(なぎ倒しによる圧死や交通事故か)心臓発作や高山病と原因はさまざまだ。この高山地帯へTシャツでやってくる者がいる。酷暑に暮らす彼らには高所の冷気を想像することができないのだ。繰り返される死亡事故は防がねばならない。だが、美しい山脈の傍らの谷に散乱するゴミも問題なのだ。公共の場所におけるインドのゴミは目も目も当てられぬほど深刻である。
アマルナート
聖なるガンジス川は、皮肉なことにもっとも汚染の激しい川なのだ。
バラナシの寺院の僧侶が、毎日、ガンジス川の水質を検査している。その結果はまさに恐るべきものなのだ。僧侶は「ガンジスは下水ではない」と吐き捨てるように言う。ガンジス川には、農薬や工場排水などのあらゆる有害物質が流れ込む。そして、バラナシでは、毎年3万もの生焼の遺体が流されるのだ。ナレンドラ・モディは、首相になると、ガンジス川を清浄化する、と宣言したのだ。
燃料にする乾燥牛糞も衛生上問題が多いのだが、インドでは道端にはしばしば人糞さえ取り残されている。トイレの普及よりも携帯電話の普及が先行してしまった。そして、村では、たとえトイレがあったとしても、外で用をたすことが好まれる。また、デリーには、皮肉なことに“国際トイレ博物館”なるものがあるのだが、デリーのもっとも格好をつけた地域でも、公共トイレはまったく不充分なのだ。
ヒンドゥー教徒に比べムスリムは経済的・教育的レベルが一般に低く、劣悪な環境で生活している。にもかかわらず幼児の死亡率が低いのは、戸外での排便の習慣がないからだと考えられている。
デリーの大気汚染は中国以上に深刻だ。秋の祭り、ドゥワリーの花火は、殺人的な空気汚染をもたらしている。デリーの子供たちの肺には、いつも痰がつまっている、多くの人が話す。
ナレンドラ・モディは、空気清浄化を宣言する一方で、インドを世界の工場にしたがっている。その工場の電力は、大半が石炭による火力発電なのだ。今のところ、インドの二酸化炭素の排出量は、中国や米国よりも少ないが、じきに逆転するだろう。
インドは、今も日照りと洪水に痛みつけられている。また、相変わらず水不足も深刻だ。
環境の改善が、民主国家インドの最大の政治課題となる日は近いだろう。
10.パキスタンとの長い軋轢を修復する
多くの人が、リスク回避に向かおうとするとき、モディは、強気でいく。モディの政治スタイルはその派手な立ち回りに最大の特長があるからだ。モディは、近隣国との関係強化、とりわけパキスタンと中国との関係強化に力をいれる。2014年の首相就任式では、何とパキスタンの首相、ナワズ・シャリフを招き両首相は握手を交わしたのだ。その交流の始まりは、両国の歴史にとり画期的なことではあったが、実のある成果をあげてはいない。
パキスタン政府のスパイ・テロ行為への関与が、パキスタン・インド両国の平和努力を無にしているのではないか、と私(アダム・ロバーツ)は、その政府高官を問い詰めたことがある。彼は、インド政府がマフィアに金をだし、暴れさせている、と繰り返し言うだけなのだ。その発言は、パキスタンがジハート戦士をインドに送りこんでいる、ことを認めていることになる。重大なテロ事件を引き起こしたイスラム過激派に情報と基地を、パキスタンが提供していることは確かなように思える。軍は、イスラム過激派を取り締まる一方で増長させている。パキスタンの息のかかったテロリストが惨事を引き起こすのは、政府が弱体であるためなのだ。政府は軍をコントロールしきれていない。
インド・パキスタンの対立の根は、宗教の違いによる1947年の分離独立にある。分離独立は凄惨を極めた。少なくとも1400万人もの人々が、移住を余儀なくされた。さらにヒンドゥー教徒、ムスリム間の虐殺の応酬(死者20万人ともいわれる)があった。
これらの過去の経緯から、インド・パキスタンの関係修復を声高に主張しにくい雰囲気があるのだ。
だが、モディにとって、2割近い国土と国民を失った分離独立自体(分離独立というスキームの選択には、ジンナーの責任が大きいと、アダム・ロバーツは考える)が、歴史上の汚点なのだ。
パキスタンにおけるエスタブリッシュメントとは、軍の中枢に位置する人々であった。そしてパキスタンにおける軍とは、国防を司る国家の一部門ではなく、パキスタンの経済を牛耳る一大産業なのだ。
2013年の選挙でナワズ・シャリフが首相になると、彼は、派手に立ち回りながらも現実的な路線へ踏み出していった。ナワズ・シャリフは、軍を掌握していた。彼は、米国のアフガンニスタンへの侵攻とパキスタンへの圧力を非難した。シャリフの外交顧問も、経済の発展と平和を何よりも重視したのだ。
ミヤーン・ムハンマド・ナワーズ・シャリーフ
1949年、財閥の家族に生まれる
三度、パキスタン・イスラム共和国の首相を務める
インドとパキスタンの長引く争いの歴史は、不毛の一語に尽きる。この争いは、両国にとってあまりにも高いコストがかかっている。インド・パキスタン対立に終止符を打つのに、どんな障害も、本当はないはずだ。
インドの人々は、パキスタンの人々の実際の生活を何も知らない。また、パキスタンの人々も同様に何も知らないのだ。
2011年にインドで開催されたクリケット・ワールドカップでの、インド・パキスタン戦の雰囲気は最高だった。どうしてこの両国が、血で血を洗う戦いをしなければならないのか、私(アダム・ロバーツ)は、不思議に思ったのだ。
ここにきて、インドがパキスタンを国力の多くの面で凌駕することが明らかになってきた。欧米諸国もインドの潜在力に注目している。インドは、近隣諸国と、とりわけパキスタンとうまくやっていかなければ信頼たりうる大国とは見られない。インドのパキスタンとの関係改善は、国際的な要請でもあり、それが画期的な意義をもつのは、インドの国際的な地位を引き上げるからなのだ。
パキスタンへの米国の経済的援助が減っていく一方で、中国の援助が目立ってきた。中国は、パキスタンに莫大な援助を行っている。そしてインドにとっては、中国の軍事力の増強が、パキスタンとの関係改善を急がせてもいるのだ。もし、インドがパキスタンとの関係改善に失敗すれば、パキスタンと中国が一体となって、一大脅威となることは明らかだ。
インドは、イランに中継港を求めている。インドはなんとしても西側世界への太い通路が必要なのだ。パキスタンとの関係改善は、中央アジアとの貿易を拡大するのは間違いない。パキスタンとの関係改善によるインドの経済効果は計り知れないものがある。
11.東からの影
インドネシアは言うにおよばず、インド・ヒンドゥー文化の影響は中国にまでも達する。インドはその気になれば、大ヒンドゥー文化・経済圏を打ち立てる素地をもっている。インドは、ベトナムとも、さらにモンゴルとも、関係強化にのりだしているのだ。だが、中国が現状において地政学的に有利な立場にたっている。中国の高官は、中国とパキスタンの関係を、どんな山よりも高く、どんな海よりも深い、と大胆に表現するのだ。
険しく危険なチベット街道をジープで走り、ラサに入る。中国の1962年の侵入について私(アダム・ロバーツ)に語りかけてくる者が今でもいる。村民と僧たちは、砲弾飛び交うなか、夜陰にまぎれて逃走した。
モディ政権は、自国に居住する仏教徒を尊重する方策をとっている。
私(アダム・ロバーツ)がダライ・ラマに会ったとき、彼はワインレッドの服を着、ジョン・レノンにもらったサングラスをかけていた。ラマは、喋るごとに、高笑いをした。
中国政府は、次のダライ・ラマが誰になるか強い関心をもっている。そして、彼らは、自分たちで次のダライ・ラマとなる候補の少年をたてているのだ。
1970年代初めてインドを旅したとき見た、ブッダガヤ近く
のチベット人居住区は、難民キャンプさながらの掘立小屋
だった。だが、今、マイソール郊外のチベット寺院
(通称ゴールデンテンプル)は鉄筋コンクリート建ての
立派なものだ。僧房も整備されている。
中国とインドの国力の差は歴然としている。教育、保健衛生、識字率、国民の栄養等々について、中国はインドを凌駕している。他方、両国の経済的ギャップは縮小しつつある、という見方もある。
ネルーなどは、同じ大国の植民地主義に苦しんだ者として、中国に親近感をもっていた。
中国に駐在していたインド人女性のジャーナリストは中国-インド間の相互の無理解を嘆く。民主主義に基づく自由で平和なインドを讃えるのは、ごく少数の中国人なのだ、と。
(いったいどれだけの日本人が、もっと言えば、インドを旅行するどれだけの日本人が、民主主義に基づく自由と平和がインド人のプライドなのだと、認識しているだろうか。)
2011年、世論調査ははっきりと、中国の軍事力がインド最大の脅威であることを示した。
モディは、中国との国境問題にはアイマイな点があるとさえ発言し、国境のインフラ整備と軍事施設の強化を宣言した。他方、モディは中国との関係改善を急いだ。モディは、習近平の父親にも面会したのだ。だが、中国は、ヒマラヤの占領地で何度か軍隊を進駐させ、インドを刺激したのだ。2015年、モディは中国を訪れる。中国は、表面とは裏腹にモディをうまくあしらっている。インドは交渉を有利に導くタイミングを失った。中国は、道路や鉄道の整備を進め、実績を積み上げていった。
モルジブには、中国人観光旅行者が殺到している。彼らは、浜で蟹をとり、ホテルの部屋で煮て食べる。そこでも、中国の人々の存在感は圧倒的なのだ。
インドの政策立案者は、どうも陸地の国境に目が奪われているようだ。だが、領海問題も決して侮れない。アンダマン諸島の安全保障上の重要性はいくら言っても言い足りない。その軍事拠点化は進行中であると説明されるのだが……。
今のインドの劣勢は、将来くつがえる可能性は無論ある。焦点は海路だ。
12.米国からの声
インドはアジアの近隣諸国との友好関係作りにずっと努力してきた。インドを盟主とする諸国家連合作りたいのだ。しかし、相応の努力にもかかわらず、はかばかしい進展はない。
他方、インドと米国の関係は良い時も悪い時もあった。
インデラは、ソヴィエトロシアのアフガニスタン侵攻(1979~)後もソヴィエトとの関係を重視した。ネルー家の伝統は、英国留学であり(米国への同調に慎重である)、社会主義的であったのだ。
インドが内向きの閉鎖的経済であった時代が終わり、インドが強大市場であることが分かってきた。2030年には、インドが巨大な経済大国になるのはほぼ間違いない、と多くの人が言い始めた。また、インドは経済のみならず軍事・外交のパワーも存在感を増しつつあるのだ。
モディは、21世紀をインドの時代にするのだと意気ごんだ。
モディは、1994年に招待されて米国ツアーを行っている。そして、インドが発展するために米国との関係強化が不可欠である、と考えた。世論もインドの人々は、中国よりも米国を好ましく思っていることを明かしている。
ハイテク兵器の分野でロシアは後退しつつある。軍事面でも、インドは米国との協力関係を重視せざるを得なくなってきた。
モディは、とりわけオバマとの関係を重視した。オバマとモディは、非特権的な背景を共通にもっている。
タリバン追放後の平和維持に関してインドの貢献は大きく、発言力を増した。イスラム過激派にたいしてインド・米国は共通の歩調をとることができるのだ。
オバマ時代、米国はインドに随分軍事援助をおこなった。
インドは、米国の援助で原発も作った。
今の米国に居住するインド人は、イスラエルに見習って活発にロビー活動を行っている。インドが原発をつくれたのもそうしたロビー活動の活動の成果なのだろう。しかし、その結果、インドは原発事故に対する重い責任を負うことになった。
モディは、BJP(インド人民党)が勢力拡大する中で、海外在住のインド人の支持をえるために米国を訪れた。2800万人ものインド人が海外で職を得、本国への送金額の総額は、インドGDPの3.5%にも達する。英語圏の国々は、英語に堪能なインド人を有難がる。アメリカにいる三分の二以上の人々が、地位の高い高額所得者層に属する。ペプシやノキアといった巨大企業を引っ張っているのはインド系の人々なのだ。
米国のインドへの援助は、中国の台頭という背景がある。米国にとってインドは増長する中国への対抗馬である。さらに、米国がインドにいい顔をしなければならないのは、インドの人材なしに今の米国経済は成り立たない、という実情によるのだ。
13.ヒンドゥートゥヴァの真実とグジャラートのポグラム
1950年、ナレンドラ・モディは、ワタナガル(グジャラート州アフマダバードから北へ100km)で生まれた。モディの家が属するカーストは、食用油作りのカーストだった。彼の父親は、駅近くで屋台の茶店をやっていた。建て替えるまえの生家は、小さな馬小屋のようだった。週末にはよく泳ぎにいった。ワニを持ち帰り育てたりした。10代で結婚したが、モディの望みではなく、その後、彼は、その妻をほったらかしにした。モディは、禁欲的な独身者というイメージで通っている。が、これはあまり取りざたされないのだが、若い愛人がいる。若いモディの興味は、政治と芝居だった。主役はいつもモディだった。モディは成人すると、故郷の街についてあまり語らくなった。
RSS(民族義勇団)の活動がモディを街の小さな世界からより広い世界に救い出したのだ。
RSSは、初めは多くがブラフマンだったが、今は様変わりした。
RSSのボランティア活動は、とりわけBJP(インド人民党)への支持活動は熱烈なものがある。部外者がRSSを知るには、毎日行われる集会を見ればよい。そこに女性の姿はない。RSSは政治組織ではないのだが、近年、BJPに対し発言権を増している。RSSのリーダーたちは、モディの政治力は、RSSの友愛に支えられているのだ、と自負する。BJP、ないしはヒンドゥーナショナリズムの隆盛と、モディの半生はかなりの部分で重なっている。
モディへのサヴァルカール(RSSのイデオロギー的支柱)への影響は明かだ。サヴァルカールは、モハンダス・カラムチャンド・ガンディーと違って暴力的な実力行使に肯定的だった。サヴァルカールは、12歳の時、村のモスクを攻撃したのだ。モディにとって、サヴァルカールは英雄である。サヴァルカールのヒンドゥートゥヴァ(ヒンドゥーの真実)という考えによれば、ヒンドゥー教徒でないことは未完成で、根本律法に対して適正でない、ことになる。モディが、ヒンドゥー至上主義の過激派にも寛容であること、あるいはアッサム地方でイスラム系住民に対する締め付けを強化していることなどは、ある種、論理的な帰結なのである。
サヴァルカール(1883~1966)
ナードゥラム・ゴドセ(ガンディーの暗殺者)もまた
サヴァルカールの強い影響を受けていた
しかし、現実のインドでは、たとえば、ヒンドゥーの若者とムスリムの娘の婚姻がいたるところで起きている。モディは、理念に沿わぬインドの今の現実にどう対処しているのか。…RSSの真の問題は、その暴力肯定の体質だ。だが、モディの巧みなところは、サヴァルカールに心酔する一方で、より寛容で進歩的なヒンドゥーの伝統-ヴィーヴェカーナンダやラーマクリシュナ-にも開かれている面があり、それらをうまく使い分けているところなのだ。……そう、ナレンドラ・モディは、ヒンドゥー原理主義を、ヴィーヴェカーナンダを、ハイテク技術を、さらに自らのマッチョぶりを、その時々の状況に合わせて操ることのできる。
2002年のポグラム、そもそもの始まりは、ヒンドゥーの巡礼者をムスリムが襲ったことによる。列車を外からロックし、火をかけた。60人の巡礼者が焼き殺されたのだ。
ムスリムの襲撃に弁護の余地はない。がしかし、グジャラートにおけるムスリム居住区はひどいものだ。あからさまな行政的な差別を受けている。
虐殺に対してRSS(民族義勇団)は当然のこととして反撃にでた。彼らは、モディが襲撃されたと言いふらした。片手に刀、片手に携帯電話をもってムスリムを殺しまくったと、ある女(性)は証言する。モディは、ヒンドゥーの過激派に対し毅然と対処しなかった、と非難が集中する。そのモディへの非難が間違っていないとしても、モデイの側にも困難があった。モデイが、暴動に対して迅速な対応ができなかったのは、モデイの政敵(会議派のみならず、BJPにも根強く存在した)による妨害が至るところであったのだ(とりわけ警察の指揮系統において)。
モデイの公言やRSSの主張とは異なり、モディとグジャラートの有力なもスリムとの関係は、親密なものなのだ。暴動で攻撃の標的となったムスリムの政治家は、モディに直接電話をして助けを求めた。モディは、暴動の沈静化には時間が必要だと言った。
ポグラムの後、米国の態度は一変する。欧米諸国は、モディの責任放棄をあいついで問題にした。米の不信は加速していった。米の外交筋は、モディが首相になる可能性が大であると分析したうえで、そうなった場合、インドの経済は発展するが、宗教対立が激化するだろうと予測した。首相に就任したモディに、オバマ大統領は、宗教的寛容とマイノリティーへの配慮を繰り返し求めたのだ。
虐殺事件の直後から様々な黒い噂が言われた。モディの信頼する数少ない人物が、一連の殺人にかかわったとする憶測がまことしやかに囁かれた。しかし、それらが法廷で争われることはなかった。
事件について、モディは無実を主張し、その後の選挙における勝利が無実の証明だと、言った。法廷も、モディの無実を告げた。しかし、インドで大物政治家が有罪になったためしはない。
事件後、モディへの支持はむしろ急拡大する。
2002年のグジャラートにおけるポグラムに関し、不屈の活動家らの努力によって、2016年、24名の有罪が確定した。
14.力の誇示とリベラリズムの退潮
モディが政権についてから(2014年)、コミューナルな紛争が増加している、と多くの人が感じている。モディのヒンドゥー至上主義の政策がモスリムやマイノリティを追い詰め、かれらの主張を先鋭化させている、と。
インドは、宗教対立による騒擾を除けば、本来は、きわめて平和な国家である。インドの根本は世俗国家であり(例えば、選挙で宗教に関する発言は禁止されている)、堅固な民主主義であり、開放された社会である。そしてインドは、穏健と寛容と自由という価値をこれまで大事に守ってきた。
モディは、国内のNGO活動に当たりが強いが、何とネット上のポルノを禁じるというバカげた挙にでた。ガンディが性的欲望を克服する奇妙な実験を試みたのは有名だが、そういう良い伝統を根こそぎ絶ってしまおうとしているのだ。モディは、自由とは相いれない傾向をもつことが明らかになったのだ。
モディのヒンドゥー至上主義的声明が、各地で拍車をかけ火を噴いている。
2015年マハラシュートラ州では牛肉の所有が違法となった。
ハリヤナ州の議員は牛の屠殺は人殺しと同等の罰を課すべきだと語った。
だがモディのドグマの影響もあるのだが、もう一つの大きな社会変動を見過ごすべきでない。つまり社会全般に言える教育レベルの向上だ。教育、論理思考の向上が、インドにおける宗教への中庸の姿勢を、ともすれば迷信と重なりあう曖昧な伝統的価値観を、疑問視し排斥し始めているのだ。教育が中庸という曖昧さを排除している。教育が迷信を排除した分、諸宗教のアイデンティティを鋭く問うようになったのだ。
ついこの間まで平和に共存(ヒンドゥー教徒とムスリム)していたのに、ある日突然殺しあいになったのだと、村人は語る。残念なことに、ヒンドゥー教徒とムスリムとの日常的な交流を、良い教育が妨げるようになってきた。
多くの人が、原理主義的な発想・考え方で物事を決めつけ、宗教的不寛容が流行しているのだ。ケララ州で、預言者を冒とくしたとして大学教授が八つ裂きにされた。ペンギン・インディア(インド最大の英語出版社)は、ヒンドゥー至上主義の心理分析を著した本を、回収せざるを得なかった。ロミラ・ターパル(歴史家)も狙われている一人だ。彼女は、ここ何年も、ヒンドゥー至上主義の側からの脅迫電話やメイルに悩まされている。原理主義とは相いれないインドの、あるいはヒンドゥー教の歴史を女史が公にしているからだ。アルン・ダティロイ(ブッカー賞受賞作家)も襲撃された。彼女が、カシミール地方の文化的独自性を語ったからだ。
ロミラ・ターパル 1931年ラクノウに生まれる
ヒンドゥーの歴史を知悉した立場から、ヒンドゥー至上主義の欺瞞をつく
またインド社会に緊張をもたらしているもう一つの要因がある。過激化したイスラム教スンニー派の伸長しているからだ。中東への出稼ぎ組が影響されて帰ってくる、あるいは、ガルフの金が南アジアのイスラム教徒を原理派に仕立てあげる、と言う者がいる。
イスラム教原理派は、腐敗したリーダー、政権へのきわめて有効な刃となるのだ。
原理派の拠点、デリーにあるタブリーギ・ジャマートの本部からそう遠からぬところにスーフィー寺院があり、そこにいくと雰囲気はガラリと変わり、賑やかで煌びやかなインドがある。私(著者アダム・ロバーツ)は、この共存をインド固有の価値として貴重だと思うのだが…。つまり、対照的なものの共存こそインドらしさであると考える。
タブリーキ・ジャマートの内部
イスラムの静謐な祈りの空間が想像される
インドにおけるムスリムの存在(一億八千万人)は強大なものだ。ムスリムの政治団体は、どれも外国とのつながりをきっぱりと否定する。それだけ、外国から援助を受けているとする外部の噂は根強い。だが、実際のところムスリム政党の進出はまだ限定的なのだ。他方で、ムスリムの経済的進歩が、社会的緊張を呼び込んでいる面がある。多くのムスリムが、安全を求めて家を捨てざるを得ないのだ。大きな家に住むそのムスリムの男は、何もなかったのだと質問を躱す。そして穏健なやり方が重要だと言う。総選挙を控えた政治情勢は過渡の流動化・不安を抱えている。ムスリム票が会議派に流れるのを阻止する明らかな作為が存在する、と何人もの者が口にする。
スリナガル
「嘗てカシュミールは、小麦とからしの畑がひろがり、りんご園と
ポプラの並木のある、柳の木のしげる平和な土地だった」
(バシャラト・ペール)
嘗ては、ジーンズにティーシャツ姿の若い娘たちを良く見かけたものだ。だが、今スリナガルでは、武装警官と若者との衝突が繰り返されている。
カシミールの人々は、クリケットではパキスタンのナショナル・チームを応援するが、イスラム教過激派を支持するわけではない。
活動家たちは、カシミールの独立という絶望的空想を語り、インド支配の酷い抑圧の実態を糾弾する。ただ、この地で、穏やかな調和を求めるのは現実てきではない、気がする。
カシミールの抵抗活動家に話を聞きに私たちは出かけた。私たちが彼と挨拶を交わそうとするまさにその時、彼は警察に逮捕された。
カシミールの人々は長い争闘に疲れはてている。
15.結語
8月15日(皮肉なことに我が国の敗戦の日と重なる、ここには何某かの関連がある)の独立記念日がまたやってくる。こういう時、インドの独立百周年を想像してみよう。世界が年老いていくなかで、インドだけが若い。
インドの貧困は、現在のところ世界の貧困のかなりの部分をしめる。インドにとってインドの貧困を改善することがまず最初にくる課題だ。だが、2047年までに今の貧困を脱して経済大国となるのはほぼ間違いない。…迷信深い人々をどこまで教育できるかが鍵だ。もう一つの大きな課題が女性の社会進出と地位の向上だ。また、環境問題も避けて通れない。さらに、込み入った規制を排して、州を超えた市場を作ることも、インドという国が豊かになってゆくために必須だ。
経済の発展とともにインドの国際的発言力が増してゆくだろう。その際、カシミール問題のスマートな解決、自治の拡大が前提条件になる。
中国は、経済の発展の著しいインドとの関係を重視するだろうが、それが両者間の国境紛争を解決するわけではない。
アメリカとは軍事・外交・経済協力で緊密になってゆくだろう。モディとドナルド・トランプとは、ムスリムへの敵意、外国人の排斥という点で共通している。ただ、トランプの貿易政策はインドの利害と対立し、外国人排斥は、米国で力のある働き手であるインド人と対立する。モディの登場と台頭は、経済の発展とともに、ナショナリズをももたらした。(それが行き過ぎなければ良いが…。)
インドのこれからは、十九世紀の合衆国の発展に似ているかも知れない。十九世紀のアメリカは領土拡張と経済の発展が同時に進行した。アメリカにおける経済の発展は富の偏在をもたらしたが、それが今のインドで起きている。アルコールの禁止、幼児労働、不正という共通現象も見てとれる。
希望は単純だ。よりクリーンなデモクラシー、力強い経済、不正のない社会の実現にかかっている。
了
2021, 2/17